2017年2月24日金曜日

「為了明天 あしたのために -第十一話 回憶錄の陸」

「為了明天-第十一話 回憶錄の陸」
(日本語訳は下へ)




後來和平鄉的老師建議我退學琉球大學之後進入和平鄉的學校讀音樂系。而不是在印度流浪。這樣也能讓父母放心一點。
無論如何我真的想西塔琴進步。
我不理懶惰的同學們,每天早上最早到教室清潔西塔琴然後自己練習。下課之後就去找打塔布拉的學長一起練習。放假期間都會去加爾各答及瓦拉納西看表演或找當地的樂手一起練習。
和平鄉的生活是真的很單調。大家不是道人長短不然就是睡午覺。很單純的生活。
但我把這個時間拿來努力練琴。
因為我是老師的唯一外國學生。他特別照顧我。因為有很多的練習及進步,從大家那受到一些尊重及羨慕。
在那時候在加爾各答第一次看了偶像煦珈康的現場表演。
感動...!
他的音樂是充滿著愛。
他從音樂散發的愛環抱所有的觀眾。
我感動地一直落淚。
我看完表演之後發誓
「好好學基本技術之後,有一天我一定要去跟他學琴」
同一時間我認識了日本音樂家。他在瓦拉那西及加爾各答學習塔布拉鼓十幾年。那時候他在日本跟臺灣努力發展音樂生活。聽說他做很辛苦。後來越來越成功。
有一天他邀請我一起去臺灣表演。
所有的企劃及安排他都弄好。因為他的努力及辛苦我們的巡迴大成功了。
第一次在國外表演。我很開心,且太興奮了。
那時學習西塔琴大概三年多。
但只有三年...
我完全誤以為我已經變成"音樂家"...
這是我面對艱難困苦的"真正的"琴道修行。6年前的事。
答案在「原來沒有蘋果」的本意裡...
未完持續...
(照片1:和平鄉 2:練習中 3:第一次來台湾的時候)
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「あしたのために第11話 回想篇-その6」
シタールの先生からの勧めもあり、日本の大学を中退して,ビシュババラティ(シャンティニケタンにある大学)のシタールコースに入る。インドの学校に入るからと心配ないよと、大学を中退した息子を心配する親への方便でもあったのだが・・・。
とにかくシタールが上手くなりたかった。
のんびり屋のグルバイたちを尻目に、毎朝クラスルームに一番乗りして楽器を磨き、クラスの後はインド人のタブラ奏者にお宅に出稽古に行く。休みの日にはカルカッタやバラナシにコンサートを見に行っては、練習相手を探し廻る。そんな毎日だった。
のどかなシャンティニケタンでの生活は、本当に単調で、昼寝をするか、人の噂話をするしかない。
そんな空気に嫌気が差しながらも、がむしゃらに練習した。
唯一の外国人生徒と言うこともあり、先生は僕をとくに可愛がってくれた。少しずつ上手くなり、周りのみんなからも一目置かれるようになった。
そして、カルカッタで初めて憧れのシュジャートカーンのコンサートを観た。
とにかく圧倒された。音で会場を包みこみ、聴衆を自分の懐へと誘う。愛に溢れていた。知らず知らずのうちに涙がこぼれた。
「しっかり基礎を学んで、いつかシュジャートカーンに習いに行くのだ」と、心に決めた。
ちょうどその頃、ひょんなことから知り合い、仲良くなった日本人タブラ奏者の誘いで、初めて台湾に行くことになる。
長年、バラナシとカルカッタでタブラを学んでいた彼は、数年前から台湾で、音楽活動を始めていた。
彼が台湾で活動を始めた当初は、色々と苦労もあったようだが、すこしずつ音楽活動が、軌道に乗り始めた時期だった。
そんなタイミングで、彼が全てお膳立てしてくれた台湾ツアー、大成功だった。
初めて訪れる土地で演奏できる喜び。
正直舞い上がってしまった。
本格的にシタールを習い出して、約3年。
たった3年なのに、気分はいっぱしのミュージシャン気取りだった・・・
怒られ、悩み、想像を絶する地獄の様な本当のシタール修行が始まる6年前の事・・・
すべての答えは「りんごは最初から無かった」にある…
つづく・・・
(写真1:のどかなシャンティニケタン 2:シャンティニケタンにて練習中 3:初の台湾にて)

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