2017年2月24日金曜日

「為了明天 あしたのために-第十二話 回憶錄の柒」

「為了明天-第十二話 回憶錄の柒」
(日本語訳は下へ)




對從臺灣回來印度的我,和平鄉看起來是個更小的地方。
「為什麼大家在那麼小的地方就滿足了?為什麼沒有志向去外面看看?」
在那一次國外表演之後我變的得意忘形。
我自負的以為我是和平鄉最好的西塔琴手。
有時候被邀請音樂會演出。就覺得自己有在進步。
井底之蛙 不知大海的廣闊...
不懂世事的大笨蛋...
我覺得老師每次上課方式都ㄧ樣且無聊。
「我已經知道老師教過我的東西了。可不可以教我其他新的東西呢?」有時候我的心裡會這樣想。
他對我就像照顧他自己的兒子。所以當然我不能告訴他我的不滿。
但變成得意忘形的我覺得上課都很無聊。
其實老師教我的東西雖然看似無聊但卻是最重要的...
其實我需要用謙虛的心去學習及改善基礎技巧...
我並沒有想到這點...
那時候我常常聽大師們的演奏表演錄音、然後揣摩他們的演奏。但這只是用幼稚的想法跟未熟技法模仿大師們演奏的表面而已。
完全沒有瞭解旋律的意思及音樂的內容。
我在彈的是自私陳腐的"音"。
不是"音樂"
但老師從沒有罵過我。
我彈著那沒有旋律及節奏的扭曲音樂。但我沒有被罵。
我用自私的想法開始彈假的西塔琴但老師並沒有嚴格的責罵我
我就像個被父母寵壞的小孩。
對父母輕蔑又被寵壞的小孩....
我沒有發現看起來小的世界是並不是和平鄉。真的小世界是我自己在建造的不智愚蠢的世界...
也沒發覺正在一步一步把自己推進像蟲一樣被罵,害怕,如此艱難困苦的"真正的"琴道修行...
一切的答案是從「原來沒有蘋果」開始...
未完持續...
(照片1:在印度第一次演出 2:和Pakawaji鼓手Nishant哥.今年和他在徳里再会。他成著名樂手! 3:在和平鄉野外戲劇)
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「あしたのために第12話 回想篇-その7」
台湾公演から戻った僕の目に、シャンテイニケタンは小さく見えた。
「何でここに居る人たちは、ここで満足しているのだろう、もっともっと外に出ればいいのに・・・。」
たった一度の海外公演で、有頂天になっていた。
僕の周りでシタールを弾いている人達には負けない自分勝手な自信があった。
時々、町の小さなコンサートに出してもらえるようになった。自分の演奏が上手くなったと思っていた。
しかし、それはまさに井の中の蛙。
ただの世間知らずだった。
新しいラーガを習い、基本メロディーといくつかのターンをもらう事の繰り返し。
そんなクラスのルーティンも退屈だった。
「先生の弾く大体のことは知ってるよ。もっと違うことをおしえてくれよ。」心の中で、そう思ったりもした。
しかし、自分をわが子の様に可愛がってくれる先生には、そんなことは言えなかった。
いっぱしのミュージシャン気取りの僕には、すべてが退屈だった。
先生の教えてくれた事、一見退屈な事、それこそが本当は大切だったのに…。
じっくりと謙虚に学び、基礎を築いていくべき時期だったのに…。
そんなことにも気付かずに、当時の僕は、カセットやCDから、有名なシタール奏者のフレーズやアイデアを聴きかじっては、幼稚な思考と未熟なテクニックで真似をしていた。
メロディーの持つ意味や解釈などはそっちのけで、自分勝手に音を貼りあわせていただけに過ぎなかった。
それでも、先生は僕を怒らなかった。
メロディーもリズムもコンセプトも歪んだ僕の演奏を、先生は怒らなかった。
本当のシタールからかけ離れた、まがいもののシタールを弾き始めた僕を、正面から怒ってくれなかった。
そして・・・
僕もそれに甘えていた・・・
軽蔑しながら、甘えていた・・・
そのときの僕は、本当に小さかったのは、シャンティニケタンではなく、自分が作り出しつつある、無知で無力な陳腐な世界だと気付いていなかった。
そして、その数年後に虫けらのように怒られ、悩み、想像を絶する地獄の様な本当のシタール修行への道を、自ら一歩一歩と向かって行っている事を知るよしもない…。
すべての答えは「りんごは最初から無かった」から始まる…
つづく・・・
(写真1:初のインドでのコンサート 2:パカワジ奏者のニシャント君と。今年デリーで久しぶりに再会したときは、サロードの大御所と共演してました。現在大活躍中。3:シャンティニケタンの野外劇での一幕)

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