這是一件丟臉的事。十幾歲左右,外出旅行(或說露宿在外)時,隨身攜帶的物品,在所使用的老舊包包內,只有睡袋及詩集一本。
夜晚,在海邊裹著睡袋,於營火前,一邊慢慢地啜飲著威士忌,一邊聽著潮聲。接著,當月亮出來的時候,伴隨著比起潮聲更加安靜的腳步聲,出現了一位美麗的女子,彷彿就像是從小說中走出來一樣。那樣的事,在當時是確實夢見並進行著;但事實上,卻是一個人因不習慣威士忌而醉倒,在營火上嘔吐,被不是美麗女子而是狗所追趕的日常景象。
至今,便再也沒有做過那樣的夢;但旅行在外時,總會帶著一本詩集上路。
詩集是不管讀幾遍,也不會厭倦的。在詩集中覓著偶然於旅途中相會的風景、事物時,內心有說不出的喜悅。而讀小說也是一種旅行。當自己身處於所謂的旅行之中,想要「遊走」於現實與故事之間,是件困難的事。
The song I came to sing remains unsung to this day.
I have spent my days in singing and in unstringing my instrument.
The time has not come true, the words have not been rightly set, only there is the agony of wishing in my heart.
The blossom has not opened only the wind is sighing by.
I have not seem his face, nor have I listened to his voice, only I have heard his gentle footsteps from the road before my house.
The livelong day has passed in spreading his seat on the floor, but the lump has not been lit and I cannot ask him into my house.
I live in the hope of meeting with him, but this meeting is not yet.
(Geetanjali. Rabindranath Tagore)
我以學習西塔琴的地區,所選擇的和平之鄉(Shantiniketan/泰戈爾的命名,原名波皮鎮(Bolpur),位於加爾各答以北約2小時火車的地方),是印度在世界上引以為傲,大詩人泰戈爾所熱愛的土地。他因詩集《吉檀枷利》而獲選為亞洲第一位諾貝爾文學獎的得主。又,一篇收錄在這本詩集當中的詩作,巨大地佔據了我的內心。
在讀此詩作時,距離第一次造訪和平之鄉(Shantiniketan)已經過了三個多月。就這樣,在這裡下定決心要學習西塔琴。
記得確實是梅雨季,某天,住在沖繩的朋送來一只裝有信和泰戈爾詩集的小包裹。詩集是朋友在得知我決定在和平之鄉(Shantiniketan)住下時,四處穿梭在眾多二手書店中所找到的。這是《世界的詩》系列中的一本,真的是非常老舊。白色書皮上有著破舊的黃斑,的確是相當久遠前所出版的詩集。(在造訪和平之鄉(Shantiniketan)之前,我曾在加爾各達買過印度平裝版的《吉檀枷利》。老是在序文還讀不到一半,便睡著了。重要的詩集,還被我遺忘在朝著沒有終點前進的電車上。)
平靜地翻開詩集的內頁,我發現了肯定是朋友留下的痕跡。若干篇詩作皆被畫上線及添上字句。彼此間,還有彷彿是一時興起所畫下的小插圖。雖說是泰戈爾的詩集,但卻像是為了使我看見朋友同往常一樣的生活點滴;因此,在翻頁的時候,我常不由地陷入一種十分親切的氛圍裡。
「下次再見面時,就是演出的時候了吧。在那之前,不許回來啊!」
在那般堅持、積欠人情,繼續旅行的過程中,為了想起朋友的事,一次又一次地於書的內頁尋找著筆記及小插圖。不知不覺記憶裡出現了朋友的身影;而那身影至今依舊不曾消失在我的腦海之中。
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恥ずかしい話ではあるが、10代の頃には旅に出る時の(というより野宿だったが)持ち物は使い古したかばんの中には寝袋と一冊の詩集だけ。夜は浜辺で寝袋にくるまり、たき火を前にウイスキーをちびちびとやりながら波の音を聞く。そして、月の出の頃には波の音よりも静かな足音とともにあらわれる一人の美しい女。まるで小説の中の出来事のようではないか。そんなことをあの時はかなり真剣に夢見て、実行していたのだが、結局は、のみ慣れないウイスキーに一人で酔っ払って、焚火の上に吐き、美しい女ではなく犬に追いかけられるのが常であった…。
いまでは、そんなことも夢見なくなったのだが、旅に出る時には必ず一冊は詩集をもっていくことにしている。詩集ならば何度でも飽きずに読める。ふと旅先で出会う風景や出来事が詩集の中に見つかると心躍るものだ。
それに小説を読むということはもう一つの旅をすることであり、自分が旅というもの中にあるときに、現実と話の中で二重の旅をするのは難しい。
The song I came to sing remains unsung to this day.
I have spent my days in singing and in unstringing my instrument.
The time has not come true, the words have not been rightly set, only there is the agony of wishing in my heart.
The blossom has not opened only the wind is sighing by.
I have not seem his face, nor have I listened to his voice, only I have heard his gentle footsteps from the road before my house.
The livelong day has passed in spreading his seat on the floor, but the lump has not been lit and I cannot ask him into my house.
I live in the hope of meeting with him, but this meeting is not yet.
(Geetanjali. Rabindranath Tagore)
私がシタールを学ぶ土地として選んだシャンティニケタンはインドが世界に誇る大詩人・タゴールの愛した土地だ。彼はギタンジャリ(歌の贈り物)という詩集でアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞したのだが、そのなかの一編の詩が私の中を大きく占める。
その詩を読んだのは、シャンティケタンを初めて訪れてから3ヶ月ばかり経ち、このままここでシタールを習っていこうと決心したころだった。
確か梅雨時だったと思う。ある日沖縄に住む友人が送ってくれた小包の中に手紙とタゴールの詩集が入っていた。私がシャンティニケタンに住むと決めたことを知った友人が何軒もの古本屋をはしごして探しだしてくれたものだった。
「世界の詩シリーズ」のひとつで、かなり古い。白いカバーは古ぼけ黄ばんでいたが、なかなかしっかりとしたつくりの詩集だった。(シャンティニケタンを訪れる前に、カルカッタで買ったインドのペーパーバックのギタンジャリを持っていたのだが、いつも序文の半分も読まないうちに眠くなってしまい、肝心の詩にはたどり着かないまま電車の中に忘れてきてしまった。)
何気なくページを開いていくと、きっと友人が残したのだろう、いくつかの詩には線や書き込みがしてあったり、連と連の間に思いついたように描かれた友人のちいさな挿絵が、タゴールの詩集をというより、相変わらずの友人の暮らしのかけらを見せてもらっているようで、ページをめくるうちになんだかすごく優しい気分になっていった。
「今度会うときは演奏する時だね。それまでは帰らないだろうね」
そんな意地をはって、義理を欠いては続ける旅の最中、友人のことを思い出しながら、何度も何度も開くページの中に見つける書き込みとちいさな挿絵が、いつしか記憶の中の友人の姿になっていき、その姿はいつまでも閉じられることなく私の記憶の中にある。
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