2009年3月14日土曜日

在印度生活的時候

在印度生活的時候,每每短暫回國,要帶回印度的背包裡,放的不會是日本料理的食材,而是盡可能地裝進日文書。用盡辦法地想把書帶在身邊,重是重,但為的是把書架上滿滿的書,在返回印度生活的同時,捐贈給學校的日文系。

來台的時候,既沒有把「應該將喜歡的書帶在身邊」這種想法放在心上;又,覺得大型書店裡或許有日文書區的書架,但就是沒有我會喜歡的書;再加上初到這裡時的經濟狀況,我也就習慣這種有書沒書的日子。

讀的書(或說出版品),大都是從日本來台旅遊的朋友,所留下的週刊或是報紙。自網路上下載的讀物,當然沒有如書那般份量的溫暖;即便是出版品,卻又可輕易丟棄;因此,也就無法藉由閱讀它們,使內心平靜。再者,抱著電腦,也無法在如廁,亦或是泡澡的時候,同時閱讀。

如此這般的日子,近來總算因生活上獲得些許余裕,漸漸地我成為得以購買書的階級。隔了好一陣子開始讀書、集書,就好像隔了好一陣子,開始從事以前從事的運動,或是學習事物一樣;翻頁時,指尖的觸感,或是長時間過渡閱讀,導致雙眼疼痛等感覺,是那種以前就曾體驗過,連身體都能感受到的暢快淋漓。

此外,每讀完一本書時,會覺得「呀…也有這樣的作家存在啊!讀了這個人的作品,也一定要讀那個人的作品。」點點滴滴地開始想起從前讀過的,那本書的事。接著,在想起了那本書的同時,連帶地也喚起了,讀那本書的當下以及那時所遇見的人。

坦率地進入自己的內心,安靜地坐下時所閱讀的書,在那樣的時刻,各有所不同。「閱讀」不正是聯繫著自己所存在的那個瞬間,以及同那個時點一樣大的自己的一件事嗎?

為了那種自今為止所遇見的數個重要時刻,以及回首自己的存在,我想要介紹那些隨思緒浮現,座落在我心深處的書籍。
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インドで生活をしていた時には、日本に一時帰るごとにバックパックに和食の材料ではなく、和書を詰め込めるだけ詰め込んで持ちかえり、なんとか本を手元に置いておこうとしていたのだが、重たい思いをしてはこんだ本棚いっぱいの本たちも、インド生活引き上げと同時に、大学の日本語学科に寄付して来てしまった。
 台湾なら日本語の本も好きなだけ手に入るだろうと高をくくっていたのだが、あることにあるのだが、大きな本屋さんにも和書のコーナが一棚あるかないか、それに台湾に来た当初はこちらの懐具合のせいでそれもままならなかった。読む本(というか活字)といえば、日本から遊びに来た友人が置いて行った日本の週刊誌や新聞ぐらい。インターネットからダウンロードする読み物では、本そのものの重みあたたかさはもちろん、活字のそれまでも切り捨てられてしまったようで、心落ち着かなくなってしまう。それにコンピュータを抱えたまま、トイレや風呂に入りながらで読むことができない。
そんなこんなで本たちと長いことご無沙汰してしまっていたのだが、最近になってようやく少し生活にも余裕が出てきて,ぼちぼちと本を買うことができる身分になってきた。
久しぶりに本を読み集め始めるということは、なんだか久しぶりに昔やっていたスポーツや習い事を久しぶりに始めるようもので、ページをめくるときの指先の感触や、長いこと読み過ぎて目の裏が疼き出すときの感覚など、以前あじわったことある心地よさを体でも感じることができる。
そして、一冊一冊本を読む終えるごとに、「ああ、こんな作家もいて、この人を読むならこの人も読まなければなぁ」と、じわじわと昔読んだ本のことを思い出し始めるのだ。そして、本のことを思い出すと同時にして、その本を読んだ時期やその頃にであった人々のことを思い出す。
 自分の心に素直に入り、静かに腰をかけていく本はその時それぞれによって違ってくるものだ。自分が生きるその瞬間瞬間とその時の等身大の自分をつなぎとめておくことが本を読むということではないだろうか。
 そんな今まで出会った数々の大切な時と自分の存在を振り返るように、私の心に腰かけていった本たちを思いつくままに紹介していこうと思う。

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