2009年10月27日火曜日

季刊誌”Garden91”SitarYo的「黑暗中輕舞的無數螢火蟲...」 (日本語有り)


以前在雑誌Garden91上面掲載的essay、黑暗中輕舞的無數螢火蟲...
我想要和大家分享!

詳細→Garden91http://garden91.pixnet.net/blog/post/29620892
(日本語版を読んでくださる方は...繼續閱讀をクリックしたください)


黑暗中輕舞的 無數螢火蟲

留下了螺旋狀的餘韻

一步一步地降落

彎曲的弦 伴隨著搖擺移動的空間

在那其中 旅人發現了 一葉音韻


圖文│金光亮平



日本籍的金光亮平在青春之際選擇到印度學習西塔琴,而這需要一點傻勁作出的決定是他尋找自己的過程之一。你的人生中,有沒有一個「什麼」是你竭盡所有力氣都想找到的呢?有沒有一個「什麼」讓你感到你正在演奏自己生命的旋律呢?

我首次的印度體驗來自母親。

我的母親是位女強人。在她二十幾歲的頭兩年,扛起背包,以當時罕見的女子獨自一人之姿,流浪於亞洲之間。旅程中,她最心屬印度,因此有一半的時間是在印度度過,可謂不折不扣的印度大嬸。

這樣的母親,會在晚餐時製作道地的印度咖哩和奶茶,並宣布「好,今晚我們就以印度的方式用手吃飯吧!」然後捲起袖子,以「我去印度的時候呢……」為開場,娓娓道來她年輕時的印度流浪記。對於母親的這套故事,父親和妹妹都已有點厭倦,但在我耳裡,未曾蒙面的異國只是一次又一次展現了她驚人的魅力。

不知道是幸,還是不幸,自我懂事以來,就有著用手吃咖哩的記憶。夜晚我會夢見,當天母親話語中提到的印度風景。於是,幼小心靈裡立下了「有一天,我要去印度」的誓言。

幾十年後,在準備進入沖繩的大學就讀的那年暑假,造訪願望中的印度一事,終於成行了。第一次的印度之旅,僅短短一個月而已。

那次的目的,是為了傳信給母親20年來未曾連絡,居住於拉賈斯坦邦(Rajasthan)州的老朋友。總覺得有一半像是被媽媽使喚似的,但另一方面,那的確是趟令我內心雀躍的小小冒險,加上還可以去學習因大學加入爵士音樂俱樂部,而與學長姐們一起聽民族音樂從此產生興趣的西塔琴。當然,更重要的是,我認為在印度或許有一個專屬於自己的「什麼」,在那裡等待著。這般期待,使內心鼓動。

憧憬的印度─在乾裂的田間小路上,獨自一人搭著破舊的巴士去拜訪母親的朋友,並和他及他家人一起生活,渡過人情味十足的印度式Home Stay。在Banaras這個古城,我有了西塔琴的初體驗。所有在當地看到、聽到的皆是一連串的驚嘆。在人和牛一同揚起的沙塵,以及各種香料氣味之中,混合著另一個世界。

這趟旅程,確實新奇。然而,印度並沒有我要找的那個「什麼」,即便是當地所遇見的一切,皆很新鮮。但內心嚮往的印度,一如從前母親經常做的咖哩般,令我懷念。結束第一次的印度之旅後,我不由地重回大學生活,卻無法再適應一切都未曾變的校園步調─曠課、躲在圖書館裡、在房間撥弄西塔琴、扛起睡袋,晃蕩於沖繩諸島之間。為了在日常生活裡,或是藉由旅行這種所謂非日常的活動中尋找在印度尚未尋獲的「什麼」,我沮喪而隨性地過著每一天。

那樣的日子裡,我突然意識到一件事─或許,即便這個「什麼」就在我眼前的生活裡,但由於沉溺目前的狀態,所以做任何事都是半途而廢。大學的學業當然不用說,打工、彈西塔琴、甚至談戀愛也是。若真是如此,那麼現在,我就從所有半途而廢的事物中選擇一樣,至死堅持下去試試看吧!我當時這麼想。

在那個時間點上,要是一般人,都會選擇大學學業;而狂熱於那個「什麼」的我,選擇了西塔琴。如今回想起來,確實是太過年輕氣盛,蠢才一個。(母親到今天也常這樣說我,但畢竟是「有其母,必有其子」。)總之,基於上述理由,我從大學休學了。帶著僅有的儲蓄及變賣所有物後換來的金錢,不顧周遭的反對,為了學習西塔琴,再度隻身前往印度。

只是,冷靜反思學習西塔琴一事,這明確的目標裡,卻有著因延後付出社會義務,而產生的自卑感。西塔琴就好像是我逃離日本社會的自我欺瞞行為。還有,從此以後,我是否真的可以持續彈奏西塔琴?曾經,我每天深受內在聲音煎熬,遊走在軟弱及矛盾的情緒裡。

帶著這顆懦弱的心,在意外的安排下,我造訪了和平之鄉,經由和目前學琴老師的相遇,我被一點一滴地改變了。老師不單使我在嚴格的練習中不忘卻對音樂的愛戀和喜悅,還耐心地等待我的成長。從他那裡,除了窺見一首首美麗的印度Raga之外,我也從他「想成為好的演奏者,要磨練人性」這番話,以及他穩重的一舉一動間,得到音樂之外的多樣人生觀。印度音樂的精奧,伴隨著我對老師的尊敬,與日增加。而我內在的西塔琴,也確實一點一滴地朝著「自己專屬的什麼」在滋生著。

可想而知,對未來的不安感及有的沒有的煩惱依舊會存在;但是比起這些,彈奏西塔琴所帶來的快樂,會戰勝一切。決定一天八小時到十二小時的練習曲目後,從起床開始到睡前為止,除了吃飯時間以外,全被練習佔滿。騎腳踏車時,嘴裡哼著一段段練習過的曲子。和朋友說話時,右手也會停不下來地進行著彈撥的練習。每一天過著或許遭到周遭人厭惡,而完全浸泡於西塔琴裡的日子。

後來,在學了四年西塔琴後的夏天,我獲得了一個機會,可以在老師的老師,一位非常有名的西塔琴演奏者的追思音樂會上演出。我於上半場登台,首次在眾人面前彈奏。首次登台就是首次登台,我很緊張。但讓我開心的是從前的努力總算有了小小的結果。話雖如此,當天自己的表演還是糟透了。「 不需表現困難的東西,簡單而美麗地彈奏即可。因為任何人在現場演奏時,都僅能表現出平時練得一半成績而已。」演奏後,老師這麼說。那時,他的那番談話及自我反省,成了我今天的食糧。

從開始學習西塔琴到現在,大約八年了。或許愚蠢,但再繼續個五年也不是問題吧。領會著那番話的意涵,到今天,我成了一位靠一把西塔琴維生,在金字塔底端生存的人。究竟會不會因一時痴狂所做的選擇,而感到後悔呢?如今在別人面前演奏的經驗不停上演,緊張已不在,反而是隨著次數的增加,我從過程中得到的收穫也就越多。這當中,理所當然包含著:如何提升如老師所言的另外那在表演時不容易出現的50%。另外像是透過甚麼樣的方式,誘導聽眾進入音樂的世界裡,又如何讓聽眾不感厭煩、持續聆聽,以及怎麼樣對聽眾放

手,讓他們優遊於音樂之中。我所理解且持續體驗的就是─和這些聽眾互動、溝

通是非常重要的。

如此一來,大家或許會認為印度音樂肯定是處理所謂「即興」的藝術。但我要說

的是,音樂不單純是聲音的集合和旋律,不單是演奏者的,也不單是聽眾的。所

謂的音樂,應該是演奏者和聽眾共有,一同「搖擺蠢動的空間」不是嗎?

在印度音樂裡,音階Do、Re、Mi、Fa、So、La、Si、Do,被表示成Sa、Ri、Ga、Ma、Pa、Da、Ni、Sa。不過,和西方音樂不同的是,起音的 Sa可以按照演奏者當時的聲音,與樂器契合與否,任意改由其他音來替代。比如說,用西洋音階裡的Mi表示起始Sa,或者以La半音為Sa也可。換句話說,一百個人就有一百個不同的「Sa」存在,而由個別選擇的Sa開始,可以衍伸出幾百首「旋律」。

然而,我自己所選的「Sa」並非意外地簡單。為此,自己的聲音要和樂器的音調交談,必須一邊與自己演奏的西塔琴對照,一邊不斷地反覆測試。就好像在哪裡尋找著自己專屬的「什麼」一樣。假設自己所探求與選擇的那個「什麼」相較於「Sa」這個音的道理,那我所選擇的「Sa」 就是「演奏西塔琴」這件事了。

珍惜著專屬於我的「Sa」,演奏著專屬於我的旋律,從此要是能和更多人共享許多音樂編織出的「搖擺蠢動的空間」,那將會是多麼美好的事。


(日文)

闇の中を舞う無数の蛍
らせん状に残された余韻の階段
一歩また一歩降りてゆく
たわむ弦とともに揺れ動く空間
その底に旅人は一葉の音を見つける


私の初めてのインド体験は母親からだった。
私の母親は彼女の二十代前半の二年間を、バックパック担ぎ、当時では珍しく女一人でアジアを放浪に費やした強者である。中でも彼女の一番のお気に入りはインドで、旅の半分をインドですごしたというインドおばさんである。
そんな母は、夕食時にインド仕込みのカレーやチャイを作り、「さあ、今夜はインド式に手で食べるよ」と腕まくりをし、「私がインドに行った時にはねぇ…」と彼女の若かりし頃のインド放浪記を延々と話し始めるのだ。そんな彼女の話に父も妹も愛想をつかしていたが、私には母の話に聞くまだ見ぬ異国のインドがとてつもなく魅力的に映った。幸か不幸か私は物心ついたときから、カレーを手で食べることを覚え、話に聞く古き良き印度の風景をその夜の夢の中に見て、「いつかインドへ行こう」と幼心に誓った。

それから十数年後、沖縄の大学に入学した年の夏休みに、念願のインドを訪れることになる。
 はじめてのインド旅行は1カ月程度の短いものだった。
旅の目的は20年ぶりに連絡が取れたラジャスターン州に住む、母の古いインド人の友人に手紙を渡すという、なんだか半分お使いのようだが、心躍る小さな冒険と、大学のジャズ研究会の先輩たちと民族音楽のCDを聴いて、興味を持っていたシタールを習うこと。        
何よりもそして、インドには自分だけの「何か」が待っているかもしれない。そんな期待に胸を膨らませていた。
憧れてきたインド。乾いた田舎道を独りおんぼろバスに乗って訪ねた母の友人。そしてその母の友人の家族と過ごした心温まるインドホームスティ。バラナシで初めて弾いたシタール。見るもの聞くものすべて驚きの連続、人と牛が砂ぼこりという哲学と香辛料という歴史の匂いのなかに混ざり合う別世界。確かに素敵な旅だった。
しかし、インドには「何か」はなかった。すべてが新鮮な出来事であったにもかかわらず、本物のインドは昔、母がよく作ってくれたカレーのように懐かしかった。

初めてのインド旅行後、なんとなくまた大学生活にもどった私だが、相変わらずキャンパスライフというものになじめずに、講義をさぼっては、図書館にこもったり、部屋でシタールをいじったり、寝袋を担ぎ沖縄の島々をほっつき歩いていた。
インドで見つけられなかった「何か」を、自分の日常の中や旅という非日常のなかに求めては、落胆する惰性的な日々を送っていた。
そんなある日、ふと気がついた。もしかしたら、「何か」はすぐ目の前にあるのに、その行動自体に溺れ、何もかも中途半端にしているのではないかと。大学での勉強は勿論、アルバイトも、シタールも、恋愛もしかり。
もしそうならば、いま、自分が中途半端にしている物事の一つだけ選んで、それを死ぬ気でやってみよう。そう思いついた。
その時に普通のなら、大学での勉強というものを選ぶところを、何を血迷ったか私はシタールを選んでしまった。今思えば若気の至りも甚だしい、たわけ者である。(今でも母によくそのことを言われるのだが、「この親にこの子あり」ということにしている。)
とにかく、そんなわけで、大学を中退し、あるだけの貯金と身の回りのものはほとんど売って作ったお金を握り、周囲の反対を振り切って、シタール修行のために再びインドへ単身渡った。
しかし、シタール修行という明確な目的も頭を冷やしてみれば、その裏にはモラトリアムの延期という引け目があり、シタールというものが日本社会から逃げることに対する自己欺瞞ではなのではないか、しかも本当にシタールをこれからずっと続けていくことができるのか。そんな弱気とも本音ともとれる自分の心の声に頭を抱える日々もあった。

そんな弱気な心が、ひょんなこときっかけでシャンティニケタンを訪れ、今の師匠と出会うことによってすこしずつ変わっていく。厳しい練習の中も音楽に対する愛情と喜びを決して忘れることなく、辛抱強く私の成長を見届けてくれる師匠。彼から学ぶ一つ一つの美しいRAGAの世界は勿論、「いい演奏者になりたいなら、人間性をみがくこと」そう語る彼の物静かな一挙一動からは音楽以外にも多くの人生観を学んだ。インド音楽の奥深さを学び、師匠へ尊敬の念が深まるにつれ、私の中でシタールというものが、少しずつ、そして確実に「自分だけの何か」へと変わっていった。
もちろんその後も将来の不安や自分の自身のなさに悩むこともあったが、それよりもシタールを弾けることに対する喜びもほうが勝っていた。
一日8時間から12時間の練習メニューを決め、朝起きてから寝るまで食事の時間以外は練習に当てた。自転車に乗っている時はぶつぶつと習いたての曲を口ずさみ、友人と話しているときも、右手は休むことなくストロークの練習。周りの人が気味悪がるぐらいシタール漬けの毎日だった。
そしてシタールを始めて4年目の夏、師匠の師匠に当たる有名なシタール奏者の追悼コンサート之前座で初めて人前で演奏する機会を得た。前座であろうとも初舞台は初舞台。緊張よりも、今までやってきたことが少しでも形になって表れることのほうが嬉しかった。
とはいえ、演奏自体は冷や汗ものだったが…。
「難しいことをやる必要はない。美しくシンプルでありなさい。だれでも本番では練習の半分しか出すことができないのから」
演奏の後、師匠が言った。その時の彼の言葉と反省とが今の私の糧になっている

シタールを弾き始めて今年で約8年。馬鹿でも5年続ければなんとかなる。その言葉通り、今ではシタール一本で生業を立てる人間のはしくれにはなってきた。あのときの血迷った選択も間違っていなかったということになろうか。今では人前での演奏の経験を重ね、演奏前に緊張するなんてことはめったになくなってきたが、逆に人前で演奏する回数が増えるにつれ、学ぶことは多くなるようである。師匠の言うように自分の50%をどう底上げするかはもちろん、そのほかに、どうやって聴き手を音楽の世界に誘い込むか、誘い込んだ聴き手を飽きさせない流れをどうつくるか、そして聴き手をどう突き放すか。そんな聴き手とのコミュニケーションの大切さを身をもって体験している。
それはきっとインド音楽というものが、即興性という生モノを取り扱う芸術であるからかもしれない。そして、音楽は音の集合体やメロディーではなく、演奏者のものでも、聞き手のものでもない。演奏するものと聴くものが共有する「揺れ蠢く空間」のことを音楽と呼ぶのではないか。

 インド音楽のドレミファソラシドはサリガマパダニサと呼ばれる。ただ、西洋音楽と違うところは初めの音・サは、その時の演奏者の声や楽器の調子に合わせてどの音からはじめてもいいというところ。たとえばサを西洋音階のミから、もしくはラの半音の半音からはじめてもいい。つまり、百人百通りの異なる「サ」があり、そして、個々が選んだ「サ」から百人百通りの「メロディー」が生まれる。
しかし、自分だけの「サ」選びは意外と簡単ではない。そのためには自分の声や楽器の調子と相談し、自分の演奏スタイルとも照らし合わせながら、試行錯誤を繰り返えしていかなければならない。どこか自分だけの「何か」を探すのに似ているかもしれない。
もし、自分が探し求め、選ぶ「何か」を「サ」といものに置き換えることができるとしたら、私が選んだ「サ」は「シタールを弾く」ということだ。
そんな私だけの「サ」を大切に、私だけのメロディーを奏で、これからも多くの人々との沢山の音楽という「揺れ蠢く空間」を共有していけたら、素敵だと思っている。

2 件のコメント:

JOY さんのコメント...

I was moved by your words.
Your dreams are beautiful and also inspire people to think what kind of life they really want.Please keep your dreams going and I really feel you are a great person!

SitarYO さんのコメント...

Joy-san

感謝你的信.
希望你也有美麗音楽的生活。
have a good music!

Yo